映像を通して今世界で起きている事を伝える。
株式会社Unitedpressworld
代表取締役 安野 宏和
ドキュメンタリーカメラマン
大分県に拠点を置きながら、東京・ロサンゼルスにも支社を置き幅広く活動されている安野社長。
取材に伺った日に、大分土産の美味しいわらび餅を記者の私に用意して下さっていました。
そんな、優しい気遣いの安野社長にお話を伺ってきました。
(インタビュアー 木内)
映像に関することを幅広く
・テレビ番組(地上波衛星波)の撮影/編集
・ドキュメンタリー撮影/編集
・企業紹介/各種イベントの撮影/編集/MA
・ネット配信動画の制作
・撮影指導及びコンサルタント
・海外を目指している方への進出サポート
20年以上の実績
私が報道とドキュメント撮影を20年以上経験しているので、一人で構成・撮影・編集全て出来る事です。
ドキュメント撮影も、CG撮影も全て出来るので、予算を抑えられることが強みです。
現場で見るから出来る事、伝えたい事があります。それを、その場で構成・提案し、現場での交渉も出来ます。急遽の撮影でも交渉が出来るのも弊社の強みです。
取材対象者の想いを映像にする
人の想いを伝える事を大切にしています。
必ず取材対象者の想いを第一に考えクリエイターとして、自分の持っている引き出しの中から、そのクライアントに合ったものを出して撮影するようにしています。クリエイターとして、自分の持っている技術を『こんなことも出来るんだ!カッコイイ映像を作れるんだ!』と出しすぎると『技の押し付け』になってしまいます。取材対象者の想いを一番に考え、それに最適な技術を提供し撮影する事を大切にしています。
また、どんなに遠い場所でも必ずクライアントに会いに行きます。電話やスカイプではなく、実際に相手の顔を見て直接話をして、作り上げたいものをしっかりヒアリングします。
“ファスト&クオリティー”も大切にしています。最速当日で仕上げます。当日起こったことを、入れ込んですぐに流すという事も出来ます。
誰もが楽しく働きやすい環境を
映像のコンサルタントで社会貢献していきたいと思っています。
今の時代、ネット環境とパソコンがあれば、どこにいても仕事が出来る。私がやっている仕事をテレワークとして外に出していきたいです。社会的弱者の方にも働く場所を提供したいです。
本社に来ない、ネット環境さえあれば社員は全国どこにいてもいいと思っています。
どこにいても、みんなが働き易い。女性が結婚や出産で仕事を辞めて行ってしまっても、家で出来る仕事をやって頂きたいです。
最終的には世界でホールディングスを作りたいです。異業種で集まれば何でもできる会社になれます。それを、みんなで楽しみながらやっていきたいです。「仕事をみんなで楽しもうよ!」って会社を作っていきたいです。
PROFILE
株式会社Unitedpressworld代表取締役 安野 宏和
●1969年大阪府枚方市出身
●1993年日本文理大学卒業
●1993年在京映像プロダクション入社
※NHKや㈱フジテレビジョンに出向。
ビデオエンジニアとして日本国内外の報道業務に携わる
●1995年㈱大分放送のグループ会社に入社、本社映像部に配属
※カメラマン・編集・ディレクターとして活動
受賞作品も多数
●2014年からは海外展開を含め幅広く活動できるようにするためにロサンゼルスをベースにグループを結成、日本と海外のドキュメンタリー撮影などの業務開始。
●2017年㈱Unitedpressworld(本社:大分県大分市)を起ち上げる
※以前からロサンゼルスを中心に活動していたグループを株式会社化、東京・大分・ロサンゼルスのチームでアライアンスを組む
2018年11月27日 公開
世の中で起こっている事の真実を伝えたい
私が中学時代、とても世の中が荒れていました。そんな中、世の中に本当の真実が伝わっているとは思えずにいました。その時から、真実を伝える記者になりたいとなんとなく思っていました。
大学時代、音楽好きでバンドをやっていた知人から「マネジメントをやってくれないか?」と声をかけてもらい、マネジメントの手伝いをしていました。それと同時に、「放送局でアルバイト募集してるから一緒に働かないか?」と友人に誘われ、放送には元々興味があったので働いてみる事にしました。
なりたい職業は右へ左へ行ったり来たりしましたが、私の中で真実を伝えたいと決定的に思える出来事がありました。それが、鹿児島の土石流の映像を見た事でした。
「人に真実を伝える仕事がしたい。」と、音楽関係で知り合った知人に話したところ、たまたまその友人が東京の放送関係の仕事をしている人との繋がりがあり、紹介してもらいとんとん拍子に就職が決まりました。
この会社では、色んなキー局の番組作りをしました。はじめは、働く人を特集する番組など制作していましたが、入社半年でフジテレビの報道に出向することになりました。ここでは、本当に様々な事を教わりました。一生懸命仕事をしているうちに、海外での紛争や難民問題を任されるようになりました。
私が、アフリカのルワンダの難民の取材に向かった時の事です。そこで、日本の記者で紛争を扱わせたら抜群で各局が一目置く、私が物凄く尊敬している方と一緒に取材出来る機会がありました。その方に、海外取材のイロハを教え込んで頂きました。今までの楽しいばかりの取材とは違い、本当にきつくて大変な事ばかりでした。今では一大ニュースになるような、危険な状況に置かれる事もたくさんありました。そんな中、取材しながら生き抜く方法を教わりました。実は、この方が、私がこの道に進むきっかけになった鹿児島の土石流のレポートをしていた記者でした。
この方はその後、飛行機の墜落事故で亡くなってしまいました。私が一生をかけて越えなければいけない目標の方です。
私が実家の大阪に帰省している時に、阪神淡路大震災が発生しました。交通がマヒし記者が現地に入れない状況だった為、私が現地から朝の情報番組で生放送レポートをしました。
この時に、私は仕事を初めて辞めたいと強く感じました。
海外の取材は、言葉が分からないから直視できたんです。
それが、日本で起きた災害では、全ての感情が正確に理解出来てしまったんです。
カメラマンは、ファインダーを通して現場を見ているので、辛うじて直視できます。しかし、音声や照明などのアシスタントは、一歩引いてみているので客観視出来てしまいます。「目の前に人が埋まっているんだから、そんなことしてないで手伝え!」と罵声を浴びせられる。その罵声も全て理解出来てしまう言葉で言われる。私の心は疲弊しました。
そんな感情も忘れてしまうほど、地下鉄サリン事件など当時大きな事件が多発していました。忙しさに、考える事も出来ずただ仕事をこなしていましたが、やはり心の中の仕事を辞めたい感情は大きくなっていました。
そんな時、以前アルバイトをしていた大分の放送局から「局員としてではなく、グループ会社から初めてカメラマンを入れる事になったんだが、やってみないか?」と声をかけて頂きました。私は二つ返事で快諾し仕事を辞め大分に向かいました。
ここで働いているうちに、もう一度海外で取材したいという感情を持つことが出来ました。そして、自分でカメラ機材を購入し、休みの日に独自で取材しミニドキュメンタリ―を放送すると言う活動を始めました。休みの日に海外に行って、人との繋がりを作ったり、ビザの取り方・アポの取り方などのhow toを学んで、独立する準備をしました。
最初は、フリーランスで独立する人が多い業界ですが、放送局対会社で取引が出来るので大変な事は最初に全てしておこうと、株式会社として立ち上げました。